海外トラブル集


 海外を旅するときに、いちばん心配なのは,何らかのトラブルにまきこまれることだと思います。日本国内ならば簡単に対処できる小さなできごとでも、制度や文化が違い、言葉も通じない海外では大きな事件になってしまい、途方にくれることもしばしばです。ツアー旅行なら添乗員さんもつくし、それほど心配もないでしょうが、個人旅行、とくに私たちのような行き当たりばったりの野宿旅では、つねに予期しないことが起こりえます。
 このページでは、私たちのこれまで体験したトラブルを紹介します。事故や盗難、病気などいろいろありましたが、どれも深刻なことにはならず、現地の人たちに助けられながら、かえって旅を味わい深いものにしてくれました。これから海外旅行をしてみようという人たちの参考になればと思って、その体験をいくつか書きとめてみました、、、でも、参考にはならないか、野宿旅じゃやっぱり、、、。
 



旅にトラブルはつきもの。
たくさん旅していると、いろんなことが起こります。
写真はサハリンからもどったばかりの北海道で、JAFのお世話になったところ。
原因はエンジンのオーバーヒートでした。
国内ならば笑っていられますが、海外では、、、?





停車中に後ろから車が追突、そのまま逃げられた
                    =韓国、1992冬
 はじめて韓国に渡るとき、いちばん心配したのは自動車事故だ。慣れない右側走行で運転はだいじょうぶか、交通ルールはどうなっているのか、もしも事故を起こしたら言葉が通じない土地でどのように対処したらよいのか、、、不安はつきなかった。
 運を天にまかせて「えいやっ!」と海を渡ってみたところが、韓国の車事情は私の想像をはるかにこえていた。とりあえず釜山港に車を置いて街を歩いてみると、車の洪水、クラクションの渦。大きな道路はビュンビュンとばし、狭い道でも歩行者を蹴散らすように走る車、車、、、。これはえらいところに来たと思った。
 実際にハンドルをにぎり街に乗り出すと、恐怖感はさらに膨れあがった。ちょっとでも車間をあけると、すかさず右から左から車が割り込んでくる。もたもたしてると後ろからクラクションと罵声がとんでくる。接触事故もいくつか見かける。ハンドルを持つ手に汗がにじみ、私も助手席の妻も目をつり上げ身を乗り出すようにして、前後左右に気を配りながら走った。
 当時(1992)の韓国はソウル五輪後の経済成長で、車が爆発的に増加した時期だ。都市部の渋滞が激しくなり、地方にも高速道路がのびた。そのわりに、信号機や歩道は整備されず、交通規則とマナーは徹底されていない混乱期だったと思う。その後、毎年行くたびに事情は改善していったから、今ではもうそんなことはないはずだ。
 しかし、そのはじめての旅で、いきなりキツイ一発をかまされた。妻が市場で買い物をする間、私は路肩に車を停めて待っていたが、どすんと音がして車がゆれた。「はっ」と振りかえると、後ろに車が追突しているではないか。血相かえて降りていったら、相手は「わるいわるい」みたいな感じで軽く手をふって、あっという間に走り去った。あまりの早業に立ち尽す私。どうなっているんだ、この国は!
 そのときは他にも、車を駐車場に置いて戻ったらワイパーが抜き取られていた、という事件もあった。韓国の自動車旅は初回から受難の旅だった。しかしそれはまだほんの序章にすぎなかったのである、、、。
  

高速道路で車が大破!そのまま廃車に
                    =韓国、1993冬
 2回目の韓国はちょっぴり事情もわかったので、高速道路を使って北へ南へ移動した。日本の高速と同じでSAも整備されていて、トイレや食事に困らない。疲れたらそのまま車をとめて車内で眠ればよい。観光地をまわりながら楽々の自動車旅、、、のはずだった。
 しかし韓国のドライバーは相変わらず気が荒い。自家用車もトラックもあらん限りのスピードを出してつっ走っているようにみえた。その流れにうっかり乗ってしまったのが間違いのもと。愛車の日本フォード「スペクトロン」はすでに走行距離9万qをこえる「ご老体」だったのだ。高速走行中に突然ドカン!カラカラ、、、と音がして、動かなくなってしまった。尻の下のエンジンルームからは煙がもうもうとあがりはじめる。そこを開けてみると、エンジンオイルは飛び散り、シャフトはとびだしねじ曲がっていて、惨憺たる状態だった。
 非常電話まで走って、会話本片手になんとか事情を伝えた。というか、非常電話についている標識番号を連呼したのだ。まもなくレッカー車がやってきて、近くの都市の修理工場まで引っ張っていかれた。
 その工場の人たちは韓国語でなにやら説明するのだが、こちらはさっぱり意味が分からない。「明日のジョー」の力石徹に似た若社長が日本大使館に電話をして、大使館職員の電話通訳をききながら会話する。「このエンジンはもう駄目だ。韓国車のエンジンにつけかえる。料金は9万円なり」とのことだった。言うとおりに払うしかなかった。「今晩徹夜でつけかえる。お前たちはホテルに泊まって待て」と、近くのホテルに連れていってくれた。
 しかし翌朝、力石社長がやってきて何やらすまなそうな顔。身振りから判断すると、どうやら「エンジンは付け替えられない。ギアが右と左で日本製とは違う」ということらしかった。「そんなの始めからわかっているだろ!」この怒りをどう伝えようかと悩んでいるうちに、再び修理工場に連れて行かれ、「大型トラックを手配した。この車は日本に帰って修理しろ」と9万円をまるごと返してくれた。さすがに力石徹は渋みのあるいい男だった。一緒にいた3人の修理工も徹夜の疲れを瞼に残しながらも、人の良さそうな笑顔を浮かべている。かなり努力してくれたんだと納得して、友情の握手と抱擁で彼らと別れた。
 そこからトラックで高速を約400q運ばれ、釜山港でコンテナに積み込まれて下関港まで戻ってきたわが愛車。下関の自動車工場で「エンジン積み替え50万円」を宣告される。「それならいっそ買い換えたほうがまし」と判断した私たちは、その場で廃車手続きをし、積み荷の野宿道具を宅急便で自宅に送った。
 下関から新幹線「のぞみ」で東京まで帰るはめになってしまったが、ふだん電車になど乗ったことのない子どもたちは大喜びだった。まぁこれもまた良い経験だった、家族が無事でほんとうに良かった、と子どもたちの様子をながめながら自らを慰めた。

高速道が雪で通行止め、一般道を爆走30時間
                    
=韓国出発直前、1995冬
 韓国に車を持ち込むには下関からフェリーに乗る。東京に住む私たちは韓国に渡るまえに、まず国内を約1000q以上走らなければならない。
 今回は自宅を出るときすでにミスをした。年末の仕事に追われてドタバタと飛び出したので、国際免許証を忘れてしまったのである。そして気象予報にも注意をはらっていなかった。免許証は途中で気がついてとりに戻ったが、そのたった4時間のロスタイムのおかげで、ものすごく大きなツケを払わされることになってしまった、、、。
 12月25日の深夜、遅れを取り戻そうと東名道をひた走る私たちに「岡崎ICから京都南ICまで雪で通行止め」の情報が入った。翌日の夕方までに下関に着かねばならないので、迷わず一般道に降りて走り続けた。
 しかし国道1号などの幹線道路は、トラックが列をつくって大渋滞になっていた。助手席の妻は「抜け道道路地図」を手にスーパーナビゲーション、私は雪道に緊張しながらハンドルを右へ左へきるスーパードライビング。しかし翌朝になってもまだ愛知県を出ることができない。下関に電話をしてフェリーの予約を1日延ばしてもらった。27日の夕方4時出航。これが今年のフェリー最終便だ。乗り遅れたらおしまい。残り32時間しかない。
 26日は食事もろくにとらずに走り続けたが、夕方、関ヶ原を越えたあたりで完全にストップしてしまった。この場所は両側を大きな山にはさまれていて、抜け道がない。トラックの運ちゃんたちは長期戦とあきらめて、みな運転席で眠っている。道路は完全に駐車場と化していた。残り23時間。
 万事休す。がっくりと肩を落とす私に、地図を見ていた妻が「琵琶湖を北回りして京都まで出られない?」という。農道をつかって米原近辺まで行けば、あとは琵琶湖畔を北上して敦賀をまわり大津まで一気に南下する、というルートだ。何と大胆な案!雪の農道を通って敦賀方面にむかったのは私たちだけで、さすがに車は順調に走る。そして27日午前2時、やっと京都南ICから名神高速に乗ることができた。出航まで14時間。これで間に合う。
 大阪をぬけたところで初めて休憩をとった。なんと!家を出てから30時間、ぶっとおしで運転したことになる。車のエンジンは火を吹かんばかりになっていた。この間、5人の子どもたちは狭い車内にカンズメ状態だったが、非常事態を察してか騒ぎもせず、シリトリ遊びなどして過ごしていた。えらい子どもたちだなぁ、と親バカではあるが、このときばかりは感心した。
 

パンク2回!サイズ違いの中古タイヤで帰国
                    
=サハリン、1996夏

 最初のトラブルはホルムスク港に着いてすぐに起こった。
 私たちの乗った「サハリン7号」という船は、もともとロシア本土とサハリン間の鉄道貨車輸送に使われた船だ。だから船倉には鉄道レールが敷きつめてある。車を出そうとして船倉内でUターンした私は、レールを固定するツメにタイヤを引っかけてしまった。大きな音がして車が傾いたので、外に出てみるとタイヤはぺしゃんこだった。
 ロシア人の港湾労働者がとんできて、手際よくタイや交換をしてくれる。私はなんとやさしい人たちかと感激して「スパシーバ(ありがとう)」を連発していたが、そのうち一人の男が私を脇の方に連れだし「プレジェント(贈り物?)!マニー!」とすごんだ。あわてた私は財布から千円札を出したが、彼は「ドゥヴァ(2枚)」と指2本つきだす。こんなとき苦笑いをしながらも追加金を出してしまうのが、日本人の気の弱さだ。その男は2千円を手にすると、タイヤ交換が終わらないうちに去っていった。
 パンクで幕を開けたサハリンの旅は、最後もパンクでしめくくられた。サハリンの道路はたいへんな悪路だから、日本製の中古車がタイヤ交換をしている光景をいたるところで見かけたが、まさか私たちに2度目のパンクがあろうとは思いもしなかった。
 日本に帰国する日、港に向かう途中で再びあの不気味な音、そして車体が少し傾く感覚。日本のタイヤは、完璧な舗装道路でこそ威力を発揮するが、ひとたび悪路にとびだせば、しょせん「ひ弱なおぼっちゃん」にすぎない。
 しかし困ったことになった。スペアタイヤはもうない。あと2時間以内にホルムスク港に着かないと、帰国の船に乗れない。港までまだ10qはある。
 いそいでタイヤを取り外した私は、それを抱えて道路に飛び出た。使えるタイヤを手に入れなければならない。ロシア人はなんにつけ無愛想だが、「助け合い」の精神は日本人以上に大切にしている。間もなく旧型の日産ローレルが止まってくれ、村はずれの中古タイヤ屋まで時速120qで運んでくれた。
 タイヤ屋の親父はアル中のような赤ら顔で出てきたが、意外に手際よくホイールにタイヤをつけかえた。タイヤサイズが違っていたが仕方ない。料金の32ドル(約3600円?)を払って、ふたたびヒッチハイク(大型のロシア製トラックがひろってくれた)。このサイズ違いのタイヤをつけ、のろのろ運転で港まで行き、なんとか小樽港まで戻ることができた。
 小樽に着いてすぐ、適性サイズの中古タイヤにつけ替えたが、料金は3000円。物価の高い日本の方が安いなんて、、、やっぱりサハリンでぼられたのかもしれない。

重要バッグ盗難!警察がよいの3日間
                    =サハリン、1996夏
 うかつだった。この時期のロシアは政情不安定で、旅行業者からも気をつけるように再三注意を受けていた。にもかかわらず、サハリンに入った翌日、ガイドのロシア人レーナを伴った私たちは妙に浮かれていて、街なかで車から離れてレストランに入るほど気がゆるんでいた。
 30分ほどで食事を終え、車に戻ってみるとサイドドアに鍵がかかっていない。「あれ?」と思ってよく見ると鍵穴はこわされ、中からボストンバッグがひとつなくなっていた。パスポートと現金だけは身につけていたものの、車内のバッグには国際運転免許証、日本国内免許証、自動車一時輸出入関係書類(日本)、ロシア税関書類、帰りのホルムスク−小樽の乗船券、小樽−新潟の乗船券などなど、重要な書類がたくさん入っていたのだ。まず国際免許証がないとサハリンの道を走れない。税関書類がないとロシアを出国できない。帰りの船便チケットがないと船に乗れない。自動車一時輸出入書類がないと車を日本に持ち帰れない、、、。とまぁ、それほど大変な事態だったのだ。
 この事態の収拾にはかなり時間がかかった。よくはわからないのだが、ロシアの警察署にもいくつかの種類があり、木曜日が休日だったり、昼休みはしっかり2時間とってたり、仕事ぶりが妙に遅かったり不親切だったりする。レーナと一緒にあちこちの警察署や税関施設、船会社をかけずりまわったが、どこでも対応が悪くて、さんざん待たされたあげく、無愛想な職員が出てきて次の部署にまわされる、、、といった具合で、私たちの求めていた盗難証明や書類、乗船券の再発行のすべてが終わったのは事件の3日後だった。
 その間、私たちは州都ユジノサハリンスクから出るわけにはいかなかった。再び盗難にあうことを恐れて車から一歩も離れず、寝るときも街はずれの公園(日系ホテルの目の前)で車内に眠った。旅行業者によると、日本の中古車を一晩置いておくと、タイヤやミラー、ワイパーなどまで持ち去られることがあるらしい。さらにめずらしい日本ナンバーのわが愛車は彼らのかっこうの餌食だ。そう思うとぐっすり眠ることもできない。深夜の公園には暴走族のような連中がたむろして音楽をガンガン流していた。「お父さんに何かあったら、あの日系ホテルに駆け込んで助けを求めるんだぞ!」と幼い子どもたちに言い含めて毎夜を明かしたのだった。
 しかし、物事は悪いことばかりではない。この盗難で思いもかけない物が手に入った。本物のロシアの運転免許証だ。ロシアで生活している企業家や外交官はどうかしらないが、普通は日本で発行された国際免許証で運転するのではないかと思う。警察署長が街の写真館で顔写真を撮ってこいというので、撮って持っていったら、正真正銘のロシア人用免許証を発行してくれた。1ヶ月という期間限定のものではあるが、これは今でも私の宝物として大切にしている。
 

ヘルプ!車が砂地に埋まって動かない
                    
=サハリン、1996夏
 4WDを過信してはならない。ましてやオフロード車でないただの4WDワゴンを。
 サハリン南部の海岸線を走っていた私たちは、砂丘のなかにきれいな池(水たまり?)を見つけた。それは5日間も風呂に入っていなかった私たちにとって絶好の水浴び場に見えた。ちょっと足をつけてみると太陽熱であたためられた水は適温。さっそく車を水際までつけて、全員服を脱ぎ体を洗いはじめた。道路からまる見えの水場だが、ここはサハリンのド田舎だ。通る車もほとんどない。もし通ったとしても車の陰に身をかくせばよい。
 体と髪を洗ってさっぱりした私たちは、車に乗って砂丘を出ようとした。しかし、、、タイヤがカラまわりするばかりで砂地から抜けだせない。積荷をすべて降ろし重量を軽くしてはい上がろうとするが、もがけばもがくほどアリ地獄のように砂に埋もれていく。最初は余裕で車を操作していたバンダナも、だんだん不安になってきた。このままサハリンの海辺で立ち往生するのだろうか、、、。食料もほとんどないのに、、、。
 道路を見ても他の車は通らない。さっきは好都合に思えた人里離れた場所も、こうなったら地獄の1丁目の感がある。えいっ!待っていても仕方がない。助けをさがしに行こう!と、家族を残して道路を走りだした。
 どのくらい走ったがわからないが工事現場が目に入った。大きな湖のほとりに何か建物を作っているらしい。人の気配はなかったが、入口の金網にすがって大声をあげてみる。「パマギーチェ!(助けて)」というロシア語だけは前もって日本で調べてあった。金網をゆらし大声をはりあげていると、建物から一人の青年がでてきた。私の身振りからだいたいの事情を察した彼は、ロシア製のトラックを運転して助けに出てきてくれた。
 本格的な4WDトラックにロープで引きあげられた愛車の日産ホーミー。何となくてれくさそうな表情で道路のはしに縮こまっているように見えた。ロシア人の青年に金を渡そうとしたが受け取らない。日本から持ってきた新品Tシャツの袋のなかに50ドルを入れて渡した。
 日本車についている4WDの表示はただのファッションだ。これ以後、道路以外の場所に車で乗り入れるときは慎重のうえにも慎重を期している。
 

たいへん!父親が警察に連れて行かれた
                    =サハリン、1996夏
 ソ連が崩壊し、冷戦も終結したロシアであるが、極東地域にはまだまだたくさんの軍事施設が残っている。その軍事施設周辺の道路にはかならず検問所があり、いかめしい警官たちがつめている。私たちの車は日本ナンバーをつけて走っているので、ことあるごとに警官に止められ取り調べを受けた。たいていは国際免許証と車検証、税関書類等で無事通してもらえたのだが、いちばん最初に通った検問所だけは、そうとうに苦労した。
 検問所が見えたので警官の手前で車を止めたのだが、警官の動作がやけに緊迫している。発行してもらったばかりのロシア運転免許証や車検証などありったけの書類を見せたが、とにかく建物の中へ入れと腕をつかまれてしまった。「心配するな」と家族に笑顔をおくったつもりだが、きっと不安そうに強張った表情になっていたことだろう。
 建物の中で二人の係官に取り調べを受ける。取り調べといっても、こっちはまったくロシア語がわからないし、むこうも日本語はもちろんカタコト英語すら通じない。ロシア語会話本の付録辞書はあったが、ほとんど役に立たなかった。
 時間が長引いて双方だんだんといらだってくる。バカな私にも、どうやら停止位置の数十メートル手前で30kmに速度を落とすべきところだったことはわかってきた。停止位置で止まればよいと思っていた私は60kmでそこを通過したのだ。しかしわかったところで、家族を残してつかまるわけにはいかない。こちらは半分ヤケになって、「サハリンに来てろくなことがない。荷物は盗まれるし、金はぼられるし、ロシアって国はどうなっているんだ!」、、とまでは言わなかったが、盗難証明書を相手の目の前につきつけた。ところが、これが意外にも効果を示したのだ。
 係官は急に表情をゆるめ、「OK」とはじめて英語を使った。盗難証明書に押してあるスタンプを指さし、敬礼のサインをする。どうやら警察署長の署名とスタンプがえらく効いたようなのだ。不安と怒りで混乱していた私もようやく落ち着いて息をととのえ、彼らにちょっぴり笑顔をむけることができた。無事解放されたときは本当に腰が抜けるほど安堵した。
 それにしても、あの盗難があったからこそ切り抜けられた事態だった。最悪かと思えたトラブルもあながち無駄ではなかったのだと、車に戻って家族と笑いあったのだった。
 

警官に公園から追い出され野宿地が見つからない
                    
=グアム、1997冬
 グアムに行ったことがある人ならばご存知であろう。豪華ホテルの林立するタモン街。そこいらの砂浜はみなホテルの宿泊客専用のプライベートビーチとなっている、あのあたりだ。その一角にあるイパオ公園に私たちはテントを張った。
 私たちはぐったり疲れていた。深夜に空港に着き、眠れぬ一夜をあかして、朝早くここまで歩いてきたのだ。大きなザックを背負い、3歳になったばかりのコロコロの手をひいて、炎天下のなか3時間もあるいたのだ。(写真=グアム空港。このときはまだお気楽な7人)
 しかし国際的観光地というのは非情である。まもなく白バイに乗った警官がやってきた。英語で「おまえら許可証をもってるのか?」ときいているらしい。「んなもん持ってねぇ。ここは天下の公園だろ」とは言えなかったが、肩をすくめたら、「ここからすぐに出て行け」ということを言っているらしい。「でもほら、私たちビンボーでホテルには泊まれないし、子どももほれ、こんなにいるし、、、」と5人の子どもをさしだすと、「夜は街灯がすべて消える。とても危険だ」と言っているらしい。
 よくはわからないが、とにかく禁止ということで、公園を追いだされた。
 しかたがないのでレンタカーを借りてその中で眠ろうと、あちこちレンタカー会社をまわるが、年末海外旅行シーズンで空いた車はない。かといってホテルに泊まれるほど金は持ってない。政府観光局に行って安宿をさがしてもらった。
 2泊その韓国系安宿に泊まったが、くやしくてたまらない。サバイバル一家が野宿をせずにいるなんて、しかも安宿といえどホテルと名のつく所に泊まっているなんて、、、これ以上の屈辱はない。野宿できないならすぐに日本に帰ってしまおうと思いながら、再び観光局に行った。「なんとかテントを張れる場所ありません?」と騒いでいると、ドリスという有能そうな女性がでてきて調べてくれ「イパン・ビーチ・リゾート」という場所がみつかった。
 そこは韓国人が経営するリゾートで、私たちが求めているキャンプ場とはちょっと違ったが、たしかにテントを張れるし、砂浜やプールで毎日遊べる。ここに10日間滞在したが、この韓国人一家とはすっかり意気投合してしまった。
 「グアムでいきなり野宿はやっぱり無謀だ」と彼らも笑う。発砲事件があったり、麻薬中毒者もうろうろしているらしい。そのキャンプ場は周囲をしっかり囲ってあって、夜は見回りもあるので安心だ。
 政府観光局のドリスのすすめで、2回目は米軍基地内のジナプサン・ビーチに泊まってみた。日中は現地発着ツアーでにぎわう場所だが、夜は私たちだけ。テントも用意してもらえたし、食事つきだし、すごく綺麗なビーチだった。しかし、私たちはやはり韓国人との交流を選んで、それ以後はイパンビーチ専門となっている。
 不思議なものだ。「もう絶対に来ない」とまで思ったグアムに、その後は毎年のように遊びに行くことになるなんて、、、。

長男が盲腸になる!そのまま現地で手術
                    =サハリン、1998夏
 これはきっとカニとシャケのたたりだ。そうとしか考えられない。私たち夫婦も子どもも健康だけが取り柄で、これまで病気らしい病気をしたことがない。まして入院するなんてことは考えてもみないことだった。
 この年、サハリンに渡る前に北海道の稚内でたらふくカニを食べた。私たちのカニの食べ方は尋常ではない。食べるとなったら大ぶりの毛ガニを10パイほど一気に食べる。道路っぷちに新聞紙を広げ、次から次へと食いまくり、ミソから何から、それこそ殻までしゃぶる。このとき過酷な争奪戦に勝って、一番量多く肉もミソもせしめたのが小6の長男ドラゴンだった。ちょっど海産物祭りがあったので、私たちはイクラ丼もこの時とばかりに食べまくった。やはり一番ガツガツと食べたのはドラゴンだ。これらカニとシャケの恨みが1週間後に長男の腹のなかで「たたり」となって現れたのだ。長男以外の家族はみなそう信じている。
 そのときサハリンで世話になっていたレーナの両親は二人とも医者である。彼らが最初にドラゴンの様子がおかしいと気づいた。彼らの勤務する病院で診てもらった長男は、緊急手術が必要とのことで、そのまま大きな小児病院に連れて行かれた。診断は「虫垂炎」だ。そのまま30分後には手術!という突然の展開になってしまった。
 驚いたのは本人だろうが、騒ぐとか抵抗する間もなかった。あっという間に部分麻酔を打たれ、手術室に運ばれて行った。私たちが行った小児病院はちょうど改修中だったらしく、壁は崩れ廊下は埃と資材であふれていた。病室のベッドも映画で見る野戦病院のような雰囲気があった。ドラゴンの話では、手術室のなかにも蝿が飛んでいたそうだ。
 病院はそんなだが医師の腕前は一流だったらしく、無事に手術は成功し、5日間の入院ののち長男はすっかり元気になって戻ってきた。こんなことを書いては長男に申し訳ないが、私たちにとって嬉しかったのは、治療費も入院費もいっさい無料だったことだ。社会保障制度のととのっているロシアであるが、病人が外国人の場合は医療費がかかる。しかし今回はレーナの両親の顔もあって、特別に院長が治療費は無料としてくれたのだ。院長は「日本の銀行がうちにコンピューターを寄付してくれたからね」と笑っていた。
 日本で盲腸になったらかなりの費用がかかったことだろうが、それをタダで治してしまうとは、さすがサバイバル一家の長男!と夫婦そろって誉めあげた。カニ・シャケのたたりもまた有り難や、ありがたや、、、。

父親が腹部のできもの悪化、これまた現地で手術
                    =タイ、1998冬
 おヘソのちょっと下、大事なところのちょっと上。そこに吹き出物ができたのは旅行の1週間くらい前だった。ちょうど「師走」のまっさかり。忙しくて病院になど行けるわけもない。出発ギリギリに仕事をすべて片づけ、徹夜で荷物をとりまとめて、やっとのことでタイへ飛び立った。腹部の方は風呂に入ったときに針でつっついて膿を出し、消毒液をぬっておいた。
 その素人治療がなおさら傷を悪化させることとなった。たっぷりと溜まった膿はそのさらに奥、皮下脂肪の深部にもぐり込んでいったらしい。
 タイに到着した一家はとりあえず友人の用意してくれたホテルに宿泊し、国立公園でのキャンプ準備をはじめた。相談にのってくれたのは友人のそのまた友人、タイ人のキティマ女史である。父親バンダナの腹部のできものは、だんだん膨れてきて痛みも激しくなる。そのことを知ったキティマ女史、自分は看護婦の資格も持っているからと、針のような物をもちだし腹部の膿を出しにかかった。彼女は「マイペンライ(だいじょうぶ、心配ない)」が口癖の豪快な人物である。だから、、というわけではなかろうが、その時の激痛といったら思い出すだにおそろしい。バンダナは生まれて初めて失神というものを経験したのであった。
 けっきょく病院の治療を受けることになり、バンコク市内のホテルで1週間を過ごすはめになった。バンダナの嫌いなホテル生活。1992年以来、冬はずっと海外で年越しをしてきた一家だが、このときだけは野宿でなく、ホテルの部屋で衛星放送の「紅白歌合戦」をみるという贅沢をしたのであった。
 

怪我で旅行をキャンセル、でもお金が戻らない
                    =幻のモンゴル、1999夏
 旅行社は選んだ方がいい。「地球の歩き方」に広告を出しているような旅行社でも、なかにはとんでもない会社がある。
 はっきり社名を書いてしまおう。私たちの場合はモンゴル専門の「東方見聞社」というのがそれだった(現在は会社の名称がじゃっかん変わっているらしい)。
 モンゴルの遊牧民のゲルのそばにテントを張らせてもらい、そこで2週間ほど過ごしてみようというのが一家の計画だった。そのため旅行業者と何度か会い、詳細を打ち合わせた。そして、モンゴルまでの家族7人の往復航空券、中国中継地でのホテル宿泊費など約100万円を事前に支払った。
 しかし、旅行に出発する8日前に父親バンダナがアキレス腱断裂の怪我をした。泣く泣く旅行をキャンセルした一家であったが、その後、キャンセル返金の問題でさらに泣かされることになる。キャンセルの連絡したときは返ってくると言われた返金がいくら待っても、いっこうに振り込まれないのだ。何度催促しても担当者M氏はのらくらしてるし、そのうち連絡もつかなくなった。1年半たっても戻らないので裁判をして、めんどうな手続の末、「東方見聞社は一家に68万円なにがしを支払う」という和解判決となった。
 それからさらに何年もたっているが、いまだに返金はない。裁判所は判決は出すが、取り立てまではしてくれない。知り合いの弁護士に相談もしたが、倒産寸前のこの会社に財産はなく強制執行という手段も効果がないようだ。社長兼社員(一人でやっていた会社なのだ)のM氏は、「ないものはない」と開き直るだけ。私がもっているのはいわゆる不良債権というやつだ。
 しかし彼はまたこりもせずモンゴル・中国を専門とする新会社をつくったらしい。判決ではM氏個人も連帯責任を負うことになっているので、今後も取り立ては可能なはずだが、、、なぜか事態はすすまないままである。弁護士を雇っても赤字になるような金額だし、今のところ手のうちようがない。
 ちっくしょう!金返せ〜!! みなさん、いいかげんな旅行社にはくれぐれも注意しましょう。

悪夢!シベリア蚊の攻撃
                    =シベリア、2000夏
 たかが蚊と甘く見ていたわけではない。蚊取り線香にはじまって蚊除けスプレー、殺虫剤、頭からかぶる防虫ネット、肌をさらさないための手袋、車にかぶせる防虫ネット、二重措置となる車窓ネット、、、ありとあらゆる対策をとって出かけたはずであった。
 しかしシベリア蚊は、予想を上まわる屈強さと執拗さで私たちに襲いかかってきた。大陸に上陸して1週間、海辺で遊んでいたときはそれほどでもなかった。しかしその後、奥地にむかって走り、中国国境近くのトラ保護区を見学したとき、まず第一の襲撃にさらされた。
 肌をさらさないことが一番と考えた私たちは長袖、長ズボンの服装をとっていたが、そうした布きれなどものともせず、蚊の大群は体にまとわりついてきた。日本の防虫スプレーなどは何の役にもたたなかった。むしろその匂いを好んで集まってくるふうであった。じっとしていると血を吸われるので、私たちはつねに体を動かした。手足をばたばたさせ、ひっきりなしに「タコおどり」をしなければならなかった。その屈辱的な姿がビデオにしっかりと残っている。
 ハンカ湖畔で車内に一泊した朝はさらにひどかった。かゆさに目が覚めると、車の中に大量の蚊が飛び回っているではないか!網戸もしっかりしてあったのに何故だ?同行したセルゲイによると、「空気の通り道はみな蚊の通り道」なのだそうだ。シベリアの湿地帯では蚊のサイズも小さく、この程度の網戸などは簡単にくぐりぬけてしまう、という。彼らはもっと目の細かいネットを使うそうだが、もう少し北に行くとさらに蚊のサイズは小さくなり、皮膚にもぐり込んで血を吸う蚊もいると脅かされた。
 体中にかゆみ止めのムヒを塗りながら、これ以上北に向かうのはやめにしようと思った一家であった。

長男の反乱、別行動の野宿旅5日間
                    =オーストラリア、2000冬
 これはトラブルとはいえない。いずれは来るだろうと思っていた長男の反乱が予想以上に早くやってきた、ということだ。
 そのときブリスベン市郊外のキャンプ場で、私たちは年越しをしていた。おりしも20世紀から21世紀に移行する歴史的瞬間を迎えようというときだ。年末を東海岸で過ごした一家は、翌日の元旦には北部ケアンズに飛び、熱帯雨林地帯で野宿生活をする予定になっていた。しかし長男ドラゴンはブリスベンに残りたがった。冬休みをとっていたブリスベン博物館の恐竜研究者が1月4日に仕事に戻るときいたからだ。長男はどうしてもその研究者に会いたいらしい。
 しかし彼が残りたかった理由はそれだけはでない。もっと本質的な欲求が彼の内部に芽ばえていたと思う。「独立」という欲求だ。この1週間、彼はどんな行動のときも私たちから離れて歩いた。一緒に見られることを極端に嫌っていたふうだった。海外では自分勝手な行動はしないというのが、当然ながらサバイバル生活の基本である。しかしドラゴンは集団行動と単独行動のぎりぎりの所を選んで歩いていた。何度か叱ってみたが効果はない。彼はますます独立の欲求を内部に膨らませているようだった。
 西暦2000年の大晦日、私たち夫婦は決断した。残りの5日間、彼を自由にしてみようと。まだ中学2年生の少年を、日本から遠く離れたオーストラリアで単独行動させるなんて、普通の人がきいたらぶっ飛んで宙返りを3回くらいすることだろう。とても正気の沙汰ではない。しかし、私たちは信じようと思ったのだ。幼い頃から鍛えてきた彼のサバイバル魂と海外経験を。
 21世紀になった初日、2001年元旦の朝、私たちはブリスベン空港からケアンズにむけて飛び立ち、長男は一人ブリスベンの市街へと戻っていった。着替えと寝袋を背負い、若干のオーストラリアドルを握りしめて。
 その後の彼の行動は、私たちの予想をはるかに超えていた。安宿をさがしたけれど見つけられなかった彼は、公園に座りこんでいたところを、人の良いオーストラリア人男性にひろわれたらしい。その家庭に世話になりながら博物館に通い、植物化石の発掘現場に連れていってもらったり、野生のコアラを見に行ったり、たくさんの体験をさせてもらったらしい。5日後の帰国前夜にケアンズ空港で再会した長男の顔は、私たちがかつて見たことのない清々しさに輝いていた。無事で良かった、と胸をなでおろすと同時に、その成長した姿に少しばかり戸惑いも感じた。
 その後、すっかり味をしめた彼は、夏の北欧でまた1週間の単独行動にでた。そして翌年は家族とは別に単独でアメリカを95日間放浪し、さらにその半年後、インターネットでやりとりをしていたカナダの高校へ留学した。16歳という若さであっという間に親元を離れてしまったのであった。
 

空港爆破予告か?緊急一時避難
                    =アメリカ西部、2001冬
 9月の同時多発テロ事件のあと、海外旅行とくにアメリカ合衆国への旅行者は激減した。まさにその冬、私たちはアメリカ西部での野宿旅に出かけたのであった(テロ前に航空券を予約していたのだ)。
 成田空港での荷物チェックは厳重をきわめた。空港カウンター前ですべての荷物をあけて入念に調べ、さらに搭乗口では機内持ち込み手荷物まですべて手作業で検査が行われた。私たちの荷物といえばスーツケースやセカンドバッグなどではなく、汚い大型ザックやよれよれのリュックサックばかり。中からは着替えと調理用具、ビニールシートや雑巾、はては園芸シャベル(野外トイレ用)まで出てくる。すべてをチェックする係員も内心あきれていたことだろう。
 ロサンゼルス空港に無事着いても、すぐには空港から出られない。入国カードに滞在先「未定」と正直に書いてしまったことで入国審査にかなり手間どってしまい、あちこちたらい回しにされたあげく、ようやく税関ゲートをくぐろうとした矢先にその異変が起こった。
 私たちの目の前でゲートが突然閉鎖されたのだ。そのまま待つこと30〜40分。いっこうにゲートは開かない。時差ボケの子どもやばあちゃんは疲れて座りこんでしまう。一緒の飛行機だった日本人たちの姿はすでになく、行列をつくっているのは米国人乗客ばかりのようだった。降機した機長やスチュワーデスら乗務員も同様に待たされているところをみると、何かの異常事態であるらしい。そのあと空港警備員の誘導でいったん建物の外に出された。警備員はみなサングラスをかけた屈強そうな男性で、ヘタな英語で質問などしようものなら、私のようなチビは首根っこつかまれて足バタバタ、、となりそうな雰囲気があった。まだ税関を通過していないのに外の空気が吸えるなんて不思議な体験だ。冬ではあったがそれほど寒くはなく、ロスの上空にはカラッとした青空がひろがっていた。
 きっとイタズラ電話か何かがあって、空港内の安全チェックを行っていたのだろう。1時間以上待たされたあげく、とくに異常なしということで、ふたたび誘導されて無事に税関を通過した。一緒に避難させられた乗客がとくに騒ぎもせず指示に従っていたのは、このようなことが日常的に繰り返されているからなのだろうか。
 私たちはその後もディズニーランドやユニバーサルスタジオなど、人の集まる場所で必ず厳重な荷物チェックを受けた。ソルトレイク冬季オリンピックを間近にひかえて、アメリカ社会がどれだけテロに怯えていたか身をもって体験した旅であった。
 

悪路でパンク3回、フロントガラスにヒビ
                    =カナダ北部、2002夏
 悪路にはけっこう慣れているつもりだった。しかしカナダ北西部の金鉱の町ドーソンからまっすぐ北にむかう全長750kmの道、エスキモーの町イヌービクへと続く「デムスターハイウェイ」はケタはずれの悪路だった。日本でいえば高速道路を東京から岡山くらいまで走るほどの距離だろうか、すべて未舗装の道であるが、私たちはそれを3日間で往復した(約1500km)。
 ゆるかやかな丘陵地帯を縫うようにして道がどこまでも続いている。見晴らしは最高で、360度どこもかしこも原野と湖だ。朝日や夕日の美しさは筆舌につくしがたい。しかし北極圏に入ってからは草もなく、真夏というのに雪まで降ってくる。砂利道になったり泥道になったり雪道になったりしながら道はえんえんと続く。
 レンタカーはお金をケチって四駆ではなく、普通のミニバンを借りていた。うっかりするとハンドルをとられ、道路わきに転落する危険もあるので、かなり慎重に走ったつもりだ。
 最初のアクシデントは往路で。大型トラックとすれ違ったときに、はじかれた石がフロントガラスに当たってヒビが入った。完全に割れなかったのがせめてもの幸い。この道の制限速度は時速90kmで、トラックも地元の四駆車もどえらいスピードで突っ走ってくる。
 悪路の強行軍でタイヤにかかった負担は相当なものだったろう。帰路に2回もパンクをしてしまった。1回目は右前輪。ちょうど通りかかったカナダ人のカップルに手伝ってもらい、か細いスペアタイヤに交換する。750kmの道のりにガソリンスタンドは中継点のイーグルプレーンという村に1箇所あるだけだ。そこまでのろのろと走って修理。2回目は左後輪、あと少しで悪路も終わるという場所で再びパンク。1日のうちに2回のパンクというのは初めての経験だ。近くの修理工場で新しいタイヤに買い換える。他のタイヤもそうとうに弱っていたのだろう。翌日、普通の舗装道路を走っていたのに左前輪がぺしゃんこになっていた。4本のタイヤのうち、なんとか無事だったのは右後輪1本だけだった。タイヤ交換だけはやたらに上手くなったサバイバル一家であった。
 

あわや大惨事?!下り坂でブレーキが効かない!!
                    =アラスカ、2002夏
 今回われわれの足となったのは、クライスラー社のミニバン7人乗り。上述のように悪路にはめっぽう弱かったが、高速走行するぶんには快適な車だ。オートクルーズ機能によってアクセルを離しても一定速度で走り続けるし、微妙な速度調整はハンドルのボタンで手元操作できる。全ては電子制御されていて、たとえばヘッドライトをつけっぱなしで駐車しても、一定時間で自動的に消してくれる。すこぶるゴキゲンな車なのだ。 しかし、その最新機能があだになって、あわや大惨事!という事態にまでなってしまったのは皮肉なものである。
 その日、一家は帰国のためアンカレジに向かって山道をくだっていた。そろそろガソリン残量が気になってきた父親バンダナは、おろかにもエンジンを切りブレーキ操作だけで坂道を下るという究極の燃料節約術に出た。「見ろ。これが経験の差というものだ」と後部座席の子どもたちに自慢までする。しかし次の瞬間、父親の顔は青ざめた。「ブレーキがきかない!」
 エンジンを切って一定秒数をすぎた最新車は全機能をパワーオフにしたのだ。そう、パワーブレーキさえも。あわてた父親はサイドブレーキを思いっきり引きあげるが、すでに勢いのついた車は止まる気配がない。エンジンをかけようとするが、オートマ車のギアはPにもどさないとエンジンがかからないようになっている。このスピードでPにギアを入れようものなら、たちまちタイヤはロックし、道路脇の木立に激突してしまう。安全に止まる方法は何ひとつない。
 砂利道を下る車はしだいに速度をあげていく。助手席の母親モモが後部座席に向かって「しっかりつかまってなさい!」と金切り声をあげた。父親は必死の形相でハンドルにしがみつき右に左に操作するが、砂利道で後部車輪がドリフトし、車は激流を下る木の葉のような状態になってきた。「もし対向車が来たら大事故だ」「道からはずれて針葉樹林に激突した方がまだいいか」そんな考えが頭をかすめる。
 しかしわれわれは幸運だった。時間にすれば1〜2分間だと思うが、一生分の恐怖を味あわされた後、少しだけ上り坂になる箇所があり、そこが発電施設の敷地になっていてた。木の葉のような車は、道路からはずれて敷地に乗り上げるような形でようやく停止したのである。
 ドアをあけて車から出ようと立ち上がった父親の足はガクガクと震えてまともに歩けない。車からものすごい異臭がふきあがっているのは、たぶんサイドブレーキが焼け焦げたからであろう。呆然とたたずんでいた父親の目の前を対向車が1台のぼっていく。そして自転車の青年もキコキコとのぼっていった。「生きてて良かった、、、」というより「巻き添えにしなくて良かった、、、」という思いがこみあげてくる。
 この出来事は「生命にまでおよぶ危険性」といい「ひきおこされる結果の重大性」といい、他のトラブルと同列ではあつかえない。けっして笑って済ませられるようなことではないのだ。本当なら思い出したくない、まして公表したくはない出来事であるが、海外で車を運転しようという人になんらか参考になればと思い、あえて書いてみた。、、、でも走行中にエンジンを切るなんて、そんなバカは他にいないだろうなぁ、、。

到着初夜、南国酔っぱらい集団との怪しい酒
                    =パラオ、2002冬
 「無許可のキャンプ禁止」とガイドブックに書いてあった。これをサバイバル流に読むと、「見つからなければOK」または「許可されたらOK」ということになる。私たちは、いつものことだが、宿の予約もなしにテントを背負ってパラオに降りたった。とりあえずレンタカーを3日間借りた一家は、パラオ本島を車で走ってみた。じつに小さな島で、道はすぐに行き止まりになってしまう。島はずれに船着場があり、きれいな芝生になっていたので、暗くなったらここにテントを張ろうと決めて、レストハウス(あずまや)で夕食をとった。
 夕暮れになると、ぽつりぽつりと村人たちが集まってきた。べつに私たちを気にとめるふうでもなく、海を見ながら酒を飲み、語らっている。時間は7時になり8時になり、夜はすっかり更けてきた、、、それでも村人たちは腰をあげようとしない。私たちは人がいなくなるまでテントを張れないから、ベンチに座って彼らが帰るのを待っていた。すると、そのうち村人の一人が声をかけてきた。「日本人ですか?」、、、パラオの公用語は英語である。でも戦前は日本の統治下にあったので、ある程度の年寄りはみな日本語が話せる。「今日の天気は、しょーもない天気!」と言うおじさんに私たちが大ウケすると、そのあと何回もこの言葉を繰り返す、、、そう何度も笑えないが、となりの婦人が「オッサン、頭、カトリセンコウ」と言って、指で頭をさしてクルクルまわす。これはまた笑える。そんな会話で場は大いに盛りあがってきた。
 そのうちの一人が「ところで今夜はどこに泊まるのか?」と英語できいてきた。「じつはここにテントを張ろうと思っている」と答えると、みな「ここは危ない。年末のこの時期は酔っぱらいがたくさんいて、バーが閉まったら若い連中が皆このあたりに集まってくる」。(あんたらだって酔っぱらいじゃないか)と思ったが、「それは困った」と悩んでいると、「じゃ俺の家に来い。庭にテントを張ったらいい」と言ってくれた。わぉ!到着初日から許可がもらえるなんてラッキー!と喜んで、私たちの酒もどんどんすすんでいった。
 時間は10時になり11時になる。互いの酒を出し合い飲みつくすと、一人が買いに出かける。泥酔状態で車を運転して、ビールをケースごと運んできた。「♪もぉもたろさん、ももたろさん〜」と村人が歌いだす。パラオ語、英語、日本語がみだれとんで、宴会はさらに頂点に達する。そのうち一人がまた「ところで今夜はどこに泊まるのか?」ときいてくる。ありゃ?と思って「ここにテントを張って、、」と答えると、「じゃ「俺の家に来い」という。有り難い。しかし、しばらくするとまた「ところで今夜は、、?」とくる。しまった、酔っぱらいの話を信じて喜んでいたんだ、と、こちらも酔っぱらって朦朧とした頭で考える。妻も子どもも待ちくたびれて、すでにベンチに横になって爆睡していた。
 12時をまわり1時をすぎ、村人たちは一人二人と帰っていく。残るは二人と私たち家族だけとなった午前3時すぎ。何度目かの「ところで今夜は?」でようやく最後となった。「これからすぐに行こう」ということになり、飲みはじめてから10時間後、ようやく「キャンプ許可」の場所に着いたのであった。
 酒が縁でできた友人はたくさんいるが、出会ったその日に泊めてくれた人はそう多くない。パラオ人のおおらかな南国気質に甘えて、私たちはその後もすっかり世話になり、ボートを出してもらって念願の無人島キャンプまですることができた。これらのことは「旅のトラブル」とはちょっと違うが、楽しいハプニングであった。
 

食事中にイボイノシシの襲撃をうける
                    =ボツワナ、2003夏
 アフリカのキャンプ場は、じつに何というか「ワイルド」だ。ザンビアのサウスルアングア国立公園では、キャンプ場内を野生のゾウたちが歩き回っていた。ナミビアのエトーシャ国立公園では、夜間にジャッカルらしき動物がゴミ箱を荒らしていた。「下手なところでで野宿して、ライオンの餌になるなよ」と友人たちに言われていたが、たしかにキャンプ場でさえ安全とはいえないように感じた。
 イボイノシシの襲撃を受けたのは、ボツワナのチョベ国立公園にあるキャンプ場だ。その時私たちはカレーを食べようとしていた。イボイノシシがキャンプ場内をうろうろしているので、それを撮ろうとビデオをまわしていたら、そのうちの一匹がこちらにトコトコやってきた。それにつられて数頭さらにやってくる。慌てて食事などを車に運び入れたが、イノシシたちはビニール袋をつつきまわし、私たちを嗅ぎまわろうとする。喜び騒ぐ子どもたちを下がらせて、イノシシの鼻先に数発ケリを入れてやった。
 幸いに大きな反撃もなく彼らは退散していったが、あとからあの牙を思い出すと、けっこう危険だったなと反省したりする。 だが、ライオンキングの映画に出てくるブンバそのままのユーモラスな姿には笑ってしまった。
(写真=キャンプ場で昼寝をするイボイノシシ)

むかっ=3南アフリカ航空の人種差別体質
                    =南アフリカ、2003夏
 悪名高きアパルトヘイト政策は1991年に撤廃された。しかし黒人たちの職業や大都市周辺のスラム的住居を見たところでは、10年以上たった今も人種差別は完全になくなっていない。そして南アフリカ航空にもその体質がしっかり残っているように思われる。
 そのときマラウイの空港からヨハネスブルグ行きの飛行機に何とか滑り込んだ一家は、座席が離れ離れになった。左右の座席を白人の男女ではさまれた私(父親バンダナ)はたっぷりと日焼けして、いかにも有色人種。よれよれのTシャツにマラウイ人の首飾りなどつけていたから、見方によってはアジア系混血と見えたかもしれない。
 すらりとした黒人スチュワーデスがやってきて、まず白人男性に飲み物を聞きワインを手渡した。私がすかさず「ビア、プリーズ」と言ったが聞こえぬかのように同じワインをテーブルに置いた。「ビアだ」ともう一度言うと、ニヤッと笑って「ミートゥと聞こえたわ」とバカにしたように言う。「いくら俺の英語が下手だからって、ビアプリーズがミートゥに聞こえるかボケが!」と言ってやりたかったが、すぐに英語が出ない。口をもぐもぐさせていると、左隣の白人女性がくすりと笑った。
 次は食事のサービスだ。再び左右の白人に「チキンかビーフか」と尋ねる黒人スチュワーデスは、何故か私にだけはききもせずにチキンのプレートを置いた。「なんで俺にはきかないんだ?俺はチキンじゃねぇ。ビーフが食いたいから持ってこい!」と言おうとして必死に英単語を頭のなかで並べてるうちに、黒人スッチーは数列先まで行ってしまった。
 差別は新たな差別を生む。エリート黒人は有色人種をさらに差別するのだろうか?、、、と考えながら、英語だけはもっとしっかり勉強しておこう、と肝に銘じたのであった。
 

ネズミ捕りは警官の小遣い稼ぎか?
                    =南アフリカ、ジンバブエ、2003夏
 どこの国でも同じだが、警察の速度違反取り締まり(通称ネズミ捕り)ほどいやらしいものはない。ちょうどスピードが出やすく制限速度がきりかわる場所で待ち受けている。標識がよくわからなくても、制限速度を示す数字にはつねに注意が必要だ。
 南アフリカからザンビアの国境にむかう国道で、私はこれにひっかかってしまった。35km/hオーバーだった。警官二人は気さくだったが、違反切符をきりながら「これを警察署に持っていって400ランド(6000円くらい?)払え。もしこの場で払うなら半額の200ランドだ」という。もちろんこの場で済んで、200ランドがいいに決まっている。紙幣を手渡すと、書きかけの違反切符を折りたたんでぽんと渡してくれた。
 これってもしかして警官の小遣い稼ぎだろうか?地方の警官たちは暇になると、道路にでてきてネズミ捕りを始めるのかもしれない。それから国境までの間、何回もネズミ捕りを見かけた。そして運転手たちも日本と同じようにパッシング信号を交し合いながら対抗している。
 しかし注意はしていても、相手もなかなか絶妙の場所で待ち受けている。私はジンバブエで再び警官に小遣いを払ってやった。

車内からビデオカメラが盗まれる
                    =コスタリカ、2003冬
 「軍隊のない国コスタリカ」は治安もすこぶるいい。人々は親切で、ちょっと道を尋ねても身ぶり手ぶりで熱心に教えてくれる(スペイン語だけど)し、ちょっとでも困ってウロウロしていると「どうした?」という感じで声をかけてくれる。
 しかしこんな国でも、最低限の注意は必要だ。
 モンテベルデ自然保護区で雨に降り込められていた私たちは、疲れていたこともあって車のロックをし忘れた。貴重品はテントに持ちこんだつもりだったが、ビデオカメラを車に置き忘れてしまった。当然のことながら翌朝、車の中にはビデオカメラはなかった。
 自業自得とは思っても、購入して1年しかたたないビデオの盗難は痛手だ。本体よりも中のメモリーカードに入っていたこの1年間のデジタル写真をすべて失ったことがショックだった。

三男と四男が激突して怪我、合計8針縫う?!
                    =コスタリカ、2003冬
 コスタリカにはタバコン温泉というリゾート地がある。轟々と流れる川全体が温泉で、そこにプールやら打たせ湯やら、たくさんの浴槽を配した超特大の温泉郷ができている。大人29米ドル、子ども17米ドルという高額な入場料に驚いたが、せっかくの機会なので入ってみることにした。
 広い敷地の中心にプールバーがあり、水着の男女がグラス片手にくつろいでいる。子ども用にはスライダープールもあった。
 このスライダーがいけなかった。ふざけて滑っていた三男モンチと四男コロコロが激突して、それぞれ頭を5針、顎を3針縫う怪我をしてしまったのだ。酒にうつつをぬかして子どもから目を離した親も悪かったと反省しきり。
 温泉の医務室に常駐する医師によって手当てを受けた二人。それを見守る親たちも最初は神妙にしていたが、「治療費がタダ」と聞いたとたん気持ちが舞いあがって、写真などパチパチと撮りはじめた。高い入場料も、こういうサービスが含まれているなら悪くない。
 海外旅行傷害保険というものに入っていない私たちは、家族が病気や怪我をしないか、いつもヒヤヒヤしている。しかし幸いにも子どもたちはみな健康で、長男ドラゴンの盲腸手術もふくめて、過去10数年まだ治療費は一銭も払っていない。父親バンダナがタイで手術した時の出費(けっこう安かった)が唯一の汚点となっている。

スマトラ沖地震で安否不明者となってしまった
                    =タイ、2004冬
 2004年の暮れ、スマトラ沖巨大地震でインド洋沿岸に大津波が発生。タイのプーケットを中心に日本人観光客も多数命を失った。私たちがタイに入ったのは、ちょうどこの日、未曾有の大被害の直後だった。
 タイの友人キティマの「これでもか接待攻撃」を受けているさなか、TVで刻々と入るニュースに私たちも驚いてはいたが、言葉も文字もタイ語なので、まさかこの被害が自分たちに関係しているとは思いもよらなかった。タイ人たちも大変だったろうが、友人キティマは私たちに余計な心配をさせまいと、あえて何もいわず、野外遊びなどに連れだし連日楽しく過ごさせてくれた。しかし私たちがバンコクの居酒屋でのほほんとビールなど飲んで酩酊している間、日本国内ではタイにいる日本人の安否確認にやっきとなっていたのだ。
 年を越し2週間の旅を終えて帰国した私たちを待っていたのは、残した家族(老人たち)の非難の目。職場からの安否確認が連日入り、友人知人からの問い合わせもひっきりなしで、応対に困っていたようだ。パソコンを開くと、ロシアや南アフリカの友人からも「だいじょうぶか?」というメールが入っていた。TVで放送される安否不明者百数十人のなかに私たちもカウントされていたらしい。
 自宅に電話一本入れておけば、と悔やんでも後の祭り。ご心配いただいた皆さんに感謝するとともに、お気楽な自分たちの性格を深く呪った1年の幕開けであった。

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