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ビリー・ジョエル歌う、 夜空の”Leave a tender moment alone” 最近はずいぶん日が長くなってきて、太陽が9時過ぎぐらいまで出ているようになりました。僕の家の庭は北西の方角に面していて立派なテラスがついているから、夕暮れ時の景色はちょっとしたものです。日が沈む前には、家や川や林や庭や池やテラスのチェアーや崖の上の草原や、そういうものがきれいなオレンジ色に染まるんだけど、これは誰かが知らないあいだにペンキを塗っていったんじゃないかと思うぐらいです。もちろん東京のビルのあいだに沈む夕日とはずいぶん趣が違う。ここは土地が開けているから、太陽はどっか〜んとのぼって、どっか〜んとしずんでいくんです。とてもスケールが大きい。イーグルスの「Desperado」とか「New kid in town」がよく似合う。一日のなかでも夕暮れはいちばん荘厳な時間帯です。だから僕も礼儀正しくテラスに出て、礼儀正しく夕暮れをながめます。そしてときどき頭のなかでビリー・ジョエルの「Leningrad」を何回かくりかえします。カナダで「Leningrad」を好きこのんで聴くというのは理解できないかもしれないけれど、よく考えてみればあれだってとても荘厳な歌です。だから頭のどこかで結びついているんだね。特別な時間に特別な歌を聴くというのはとても内的な作業で、説明がつくことよりは説明のつかないことの方がずっと多いような気がするな。夕方(といっても9時とか10時だけど)テラスに出て「Leningrad」を頭のなかでくりかえすたびに、僕はほんの少し世界のありかたに近づけるような気分になれるし、それはたぶんほかのものでは代用がきかないことです。 僕は気が向くと日没後もテラスにがんばって、1時間でも2時間でもあたりが真っ暗になるまでそこに座っています。日が沈むと崖の上のスカイラインがはっきり見えるようになる。ドラムヘラーは谷底にある町で、崖の上にはどこまでもどこまでもつづく草原(という表現が誇張じゃないぐらい広いんです、本当の話)が広がっています。その草原の向こうに太陽は沈んでいくのだけれど、最後のひとかけらの日光が草原をすれすれにかすめるように水平に入ってくるせいで、ここの夕暮れ時のスカイラインはとてもクリアに浮き上がって見えます。黒く染まりかけた空と陸の境目にオレンジ色のスカイラインがのびているのはなかなかの見物です。時間がたつにつれてスカイラインはオレンジからうすいスカイブルーにゆっくり変わっていきます。そしてそれは西の空を蛍光色のついたひもでぐるっとくくったみたいに、しばらくのあいだそこにととどまっている。もともとが乾燥している土地だから毎日スカイブルーは見慣れているけれど、それでもこの夕暮れのスカイブルーはわざわざ外に出て眺めるだけの価値がありますね。空いっぱいのスカイブルーもそれはそれで悪くないけれど、空の暗闇と陸の暗闇のあいだをささやかにとりかこむスカイブルーというのは、郵便受けにはいったやまねこからの招待状みたいに親密で個人的な感じのするものです。加納クレタが「ねじまき鳥クロニクル」の中で言っているように、良いニュースはいつも小さな声で語られる。そういうことです。 テラスの端っこに座って本を読んでいるとよく家で飼っているネコがやってきて僕のひざの上で眠ります。虫の数は多いけれど、長袖長ズボンで外にいれば蚊はそれほどでもない。日中は暑くても夕方になるとすとんと落とし穴にはまったみたいに気温が下がってすずしくなるし、僕の家は川沿いにあって風もふくから、そういう格好をしても特に暑くない。むしろひやっとするぐらいです。 テラスにいると実に色々な動物を見ることができます。ごくたまにシカが庭先を急ぎ足で通りすぎる。キジのつがいが庭の端っこに姿を見せる。ツグミやカケスやコマドリやカササギといった鳥たちも、雨に降られた市場の八百屋とか魚屋がどたばたと店じまいするみたいに木にとまってひとしきり鳴いてから忙しく飛び去っていく。どこかのねぐらに帰る鳥の群れが夕空を横切っていく。キツツキが木の幹をかたかたつつく音もときどき聞こえます。キツツキは警戒心が強くて僕も姿を見たことはないし、カササギあたりもなかなか用心深くて僕がテラスに出ると庭の池からさっさと飛び立ってしまいます。ここのカラスはめずらしく図々しいことはあまりしないで、向こう岸の大木に集まってがあがあやっている。それからカモメもいる。何でこんな内陸にカモメがいるのかと思うかもしれないけれど、彼らはこのあたりで出るゴミを餌にして春先からずっととどまっています。うちで飼っているネコは近くの木に小鳥がとまってさえずるたびにうらめしげにそれを見上げて、悔しそうな声で鳴くんだ。それから助けをもとめるようにちらっと僕の顔を見る。このネコがときどき鳥をつかまえようとしているのを僕はたまに見かけるけれど、成功した例はいちども見ていません。家で飼われているネコにつかまるほど小鳥だってぼやぼやしてはいないのです。僕の気のせいかもしれないけど、小鳥はときどきわざと目立つ枝にとまってばかにしたようにさえずったり、からかうようにネコの上空を飛び去っていったりします。だから僕はいつもよしよしかわいそうにと思ってぐしゃぐしゃにネコをなでてあげるのだけれど、やっぱりネコはネコでしばらくするとさっと立ち上がってどこかに行ってしまいます。これがイヌだったらこういうときに僕と目をあわせて「そうでしょうダンナ。何とかしてくださいよ」みたいにうるんだ目で懇願するように見つめるから僕もぐらっときちゃうのだけれど、ネコはあくまでクールだから僕としても「何だよ、素直じゃないな」という気分になってしまう。こういった小さい鳥たちはだいたい川沿いの林をねぐらにしています。この林にはほとんど人がはいらないから鳥の巣がよくかけてある。僕はたまにこの林の中をかきわけて散歩するけれど、雨の日の翌日に林の中の日溜まりへ行くと泥の上にシカの足跡がたくさんついています。 でも鳥たちも太陽が沈んでから10分か20分ぐらいでみんなどこかに消えてしまいます。そしてあとは鳥の代わりに星が空にうかぶことになる。言うまでもないことだけれど、ここの空気はとてもすんでいるから星を見るにはいい場所です。月が明るすぎるのが何だけど、2月にはオーロラが出たこともあるし、注意してみていれば流れ星もけっこうな確率で見られます。 そんなふうにしてテラスにいると色んなことがわかるようになります。風の強い日も弱い日もある。日光の色は気温や曇り具合にずいぶん左右されるし、雲の種類や大きさや位置でグラデーションの色見本みたいに夕暮れ時のスカイラインの色が細かく変わる。暑い日とすずしい日では鳥の種類も違うし、雲に反射する夕日も日によってずいぶん違った色をしている。風向きによって気温も違うし、天気が悪くなると雨が降る前ににおいでわかる。湿気の度合いで明日の天気がある程度まで予測できる。ときどき雷まじりの夕立がやってきて、日没直前にこれがくると空をおおった雲がゴールデン・ドームみたいに光を反射する。そのせいで外は日光にオレンジ色をつけて空気にうすい黄色のペイントをぬったみたいに明るくぼやける。スコールが通りすぎると東の空から天頂にかけて巨大な虹が出る。 僕はカナダにきてからそういった自然のささやかな動きやサイクルにずいぶんと目を向けるようになった気がします。それはたぶん僕があまりひとづきあいというのをしないせいでしょうね。僕はだいたいいつもひとりでいるし、とくに自分からはしゃべらない。だから友だちのかわりに風や木や鳥やネコや、そういったものに対して静かに耳をすませているわけです。耳をすませていれば何かが聞こえるし、目をこらせば何かが見える。そういった情報をちょっとずつ積み上げて、自分だけの領域をそこに作ってしまうんです。今のところ自分の領域は僕がいつも座っているテラスの端っこから半径5mといったところです。それはかなり限定された世界ではあるけれど、それでもずいぶんと色々なものがふくまれています。そういったものにちゃんと気を配っていると、世界には見たこともないものにあふれているんじゃなくて、どちらかというと見ているのに見ていないものにあふれているんじゃないかなという気がする。でもまあそれはどちらでもいいことです。僕が言いたいのはそれがたとえ限定された世界であっても、ひとはそこにたくさんのものを見ることができるということです。 僕があまりひとと関わろうとしないのにはとくに理由があるわけじゃありません。別に友だちがいないというんでもないし、仲が悪いというのでもない。でもそれにも関わらず僕はいつも何となくひとりで行動してしまうし、多少それで精神的にきゅうくつになってしまってもその方がかえっていいことなんじゃないかと思っています。僕にとっても友だちにとってもね。たぶん僕には自分ひとりの時間がすごく必要なんです。友だちと仲が悪いとかいいとか、ひとりだときついとかきつくないとか、そういうのとは関係なくひとりで色々なことを解決していく時間を僕は必要としているんです。そういうのはひとくちで説明できるものでもないんだけど、たとえていうならば僕はひとりでその問題が顔を出すのをじっと待っているということになるのかもしれない。これは解決しようと思って解決できる種類のものでもないし、引きずり出そうと思って引きずり出せるものでもないんです。ただじっと静かに座ってその何かがはっきりするのを待たないことには、僕にもそれらがいったい何なのかさえ正確にはわからない。 ただそれは自分の殻の中に閉じこもっているという意味ではありません。僕はひとを避けているわけではなくて、ひとりでできることをできるだけひとりでやろうとしているだけです。ときどき誕生会だとか何だとかによばれたりもするし、たまには昼休みにじゃれあうこともある。でも僕はそういうことをするたびに、これはフェアじゃないんじゃないかなと感じてしまいます。半年もカナダにいるくせに僕は英語がうまくしゃべれるわけでもない。気の利いた冗談も言えないし、そもそもがそんなにおもしろおかしい人間でもない。ひとに自慢できるような思いやりも気配りの良さも別に持っていないし、スポーツはことごとくだめだし、トランプもチェスもやり方を知らない。友だちが僕を受け入れてくれるのは嬉しいことだけれど、僕はいつも何かを与えられるだけで、僕はそのかわりに友だちに与えることのできる何かをまったくもっていないんです。僕はもらっているだけで、それにこたえることができない。それはフェアなつきあいだとは言えないよね。たとえ友だちがよくても僕はよくない。それは(たぶん)正しいことじゃない。僕はもともとがかなり個人的で自分勝手な人間だから、昔からそういうふつうの友だちづきあいがどちらかというと苦手な方です。やれやれ。 だから僕には確かに実際的なレベルでひとに何かを還元していくことはできない。僕にできるのはひとりで物事のなりたち方を静かに見つめていることぐらいです。でもそれならそれでいいんじゃないかと時々思います。何というか、代償行為としてね。うまく説明できないけれど、そうすることで僕も世界のどこかのパートをひとつ担っているような気がします。もしかしたら僕だっていつかはひとにたいして公正にふるまうことができるかもしれない。何かを還元してあげられるかもしれない。自分の言葉で物事のありようを語ることができるようになるかもしれない。 まあそんなわけで、僕はひとりで本を読み、ひとりで静かな音楽を聴き、ひとりでベランダに出て考え事をしています。最近は暗くなってからよくビリー・ジョエルの「Leave a tender moment alone」を聞きます。聴いた感じはずいぶん地味だけど、僕にとってはとても親しみがあってビリー・ジョエルの歌の中でもけっこう好きな部類の曲です。ビリーはよくクールでシャープな歌詞を書いているけれど、たまにはこういうイノセントで穏やかな歌詞の曲もまたビリーらしいんじゃないかなと思う。限定されていて、不安定で、照準を見定めることができない。それは夕暮れ時のささやかなスカイラインのメタファーでもあるし、僕自身のメタファーでもあるんです。 |